耐震構造の変化-明治期の耐震構造

公開日:  最終更新日:2018/11/19

明治期の耐震構造

建物の耐震構造は、大地震の度に耐震基準の改正がなされたことで、現在に至るまで幅広い見直しがされてきました。それは、過去の教訓を活かしていることはもちろん、日本の様々な技術の進歩も影響していると言えるでしょう。そこで、ここでは明治期の耐震構造の特徴について紹介しましょう。

日本地震学会設立

1880年、横浜地震が起きたことを教訓として、世界最初の日本地震学会が設立され、地震の研究が本格的にされ始めました。日本地震学会を設立したのは、ロンドンから外国人講師として東京に来ていたジョン・ミルンです。明治維新の後、日本は近代化を目指し、西欧の学問や技術を導入しようと英国人を中心に米国・フランス・ドイツなどからもお雇い外国人として招いていたため、当時は外国人が非常に多かったとされています。横浜地震に衝撃を受け、ミルンは日本地震学会の副会長として運営しています。ミルンの地震研究は学者や政府も注目するようになり、地震研究の必要性を感じていったのです。

震災予防調査会設置も

1891年になると、マグニチュード8.0という大規模な濃尾地震が発生します。濃尾地震は7000人の犠牲者を出したほか、住宅や土木建築構造物にも甚大な被害をもたらしました。この大地震の翌年には、文部科学省に震災予防調査会が設置され、地震や耐震構造に関する分野の研究がさらに行われるようになります。第2地震学教授を務めた大森房吉氏は、耐震構造に関する研究も進めていったことで知られています。

1906年のサンフランシスコ地震の際には、大森房吉氏をはじめ、東京帝大の建築学科に在籍していた佐野利器氏や震災予防調査会の研究者たちが現地を訪れました。そこでは、鉄筋コンクリート造の耐震性を強く主張しています。規模な地震の被害を何度も受けたことで、その被害の大きさと耐震構造における研究の必要性を改めて感じたことで、精力的な研究と適切な耐震構造を明確にしていくことができたのではないでしょうか。

ここまで、明治期の耐震構造についてまとめてきました。現在も大規模な地震が記憶に新しいですが、それを機に耐震基準や耐震診断が適切なのかどうか確かめようとする方もたくさんいます。世界各国と比べても、日本の国土は非常に小さいです。

しかし、世界全体に比べると、大地震発生率も非常に高いことがわかっています。何度も大地震を経験したからこそ、その被害の大きさや教訓を基に耐震についての研究が進み、それが現在に活かされているのではないでしょうか。

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

Your Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

PAGE TOP ↑